愛知民報

【18.01.21】あいち児相ものがたり② T君と母のこと 少年、立ち直る

“金の卵”

 1950年代半ばからはじまる高度経済成長期に愛知は、膨大な若年労働者を県外から受け入れます。20年間で、中学校新卒者47万人、高校新卒者17万人にのぼります(グラフ右下)。
 家族と離れ、全国から集団就職として愛知に来た児童たちは〝金の卵〟と、もてはやされました。
 しかし、70年代以降、高度経済成長は去り、「石油危機」とからむ不況下の「合理化」という人員削減が下請け産業まで広がりました。
 その結果、労働者とその家族の一定部分に危機的状況を生み出し、児童らを困難におとしいれました。
 早くも、1967年度の一宮児童相談所事業概要に「これら(集団就職)の人々が、結婚後に破綻をきたし、児童の養護相談に来所するものが多くなってきた」と記録されています。

児童養護施設

 児童養護施設で生活するT君と母親の姿を追ってみましょう。
 Tくん(当時中学3年生)は、2歳半頃に兄姉、弟とともに児童養護施設に預けられます。小学3年頃から養護施設を無断外出し盗みなどを繰り返します。中学3年になると地域の非行グループ仲間と喫煙や飲酒、学校では授業妨害、施設でも反抗的な態度をとりました。
 「オレの14年間は、食って寝て、そし遊んだだけだ」と話すTくん。〝自分は生きる価値のないだめな人間〟という自己像をつくっていたのです。

母を知りたい

 荒れるT君は作文に、「お母さんのことを知りたい」と綴ります。
 ―おかあさんはかいものにいくといって家をでたまんま家にかえらず、ぼくたちをおいてどこかえいったとおばあちゃんはいうけど、ぼくはまだ小さかったので、ぜんぜんわかりません。もうすこしくわしくおかあさんのことを知りたいー
 児童相談所職員はT君と、児童記録票で母の足跡を追います。
 1962年、母親15歳で九州から愛知県G市の織物工場に就職。17歳、同県K市の織物工場に。同工場が2年後に倒産。その後勤務するパチンコ店で夫と知り合う。4児をもうけるも働かない夫と離別する。困窮し全4児を施設へ。

手紙の発見

 さらに母の手紙が見つかります。3児を施設に預け、長女だけ引き取り生活をはじめた母が、どうにもならず6歳の長女を施設へ預ける時の手紙です。母25歳の時。
 ―どうしても中に入ることが出来なくて、私としてはどうすることも出来ません。勝手なことばかり言って申し訳ありません。子どものことよろしくお願いします。
 一人で働いて居りますが、子ども連れでは出来ません。私もどこへもたよる所なし、相談する人もいなく、これから先どうしてよいか分かりません。
 少しのお金ですが何かのたしにしてくださいませ―
 手紙を読んだT君はひとこと、「かあさん、転々としていたんだなあ」「卒業したら一度会ってみたい」と、つぶやきました。

小さな体で

 親の失業、父母の離婚、親との離別…。すべてTくんが選んだものではありません。貧困の中で家族が崩壊する、そのつらさと悲しみ、そして怒りをその小さな体で受け止めているのです。
 母親探しを通じて、「私はどこからきたのか」、「いったい私はなにものか」と、Tくんは問い直します。職員とともに、ズタズタにされ翻弄されてきた自分の生い立ちを掘り起し、つなぎ合わせる作業をおこないます。
 Tくんは最後、作文用紙4枚にぎっしりと自分史を綴りました。そして学校の先生や友だちの励ましを受け、立ち直っていきます。
 職員とT君は、援助する人と援助される人という関係を超える信頼関係に。職員は「人間は、自分が大切にされる体験からしか自分を大切にするようにはならない。それは〝人間は人間にホレて人間になる〟ということだ」と語っています。
(元児童相談所長・加藤俊二)

全国から愛知が受け入れた中卒・高卒者数(愛知労働局職業安定課資料より作成)