愛知民報

【17.03.26】名古屋でシンポジウム ハンセン病問題から今日を問う

 ハンセン病のシンポジウムが20日名古屋市内でおこなわれました。愛知民報が協賛しました。元患者で国立駿河療養所入所者自治会長の小鹿(おじか)美佐雄さんと元患者が起こした国家賠償請求裁判を支援した瀬古由起子元日本共産党衆院議員が強制隔離と人権回復のたたかいの歴史を語りました。弁護士、障がい者、医師、平和活動家らが発言。ハンセン病強制隔離政策を通じて人権・平和・憲法の大切さを考えました。日本共産党の本村伸子衆院議員があいさつしました。小鹿さんと瀬古さんの発言を紹介します。
 

隔離政策の体験語る 小鹿美佐雄さん

 1950年、小学2年生の時にハンセン病と診断されました。名古屋駅から?伝染病患者輸送?の貨物列車に乗せられ駿河療養所に収容されました。
 入所者の扱いはひどいもので、療養所内には憲法が届いていない状態でした。人権回復をめざすたたかいの連続でした。
 医師も看護師も不足しており、軽症の患者が重症の患者を看護していました。
 療養所内には小中学校がなく、入所者が寺子屋を作って子どもたちに読み書きを教えました。正式な小中学校の分校が開校したのは53年でした。
 療養所は今も医師不足です。入所者の平均年齢は84歳。他に行くところはなく、もっと介護職員が必要です。全員がこの療養所にいてよかったと思えるようにしたい。

戦争と一体の民族浄化 瀬古由起子さん

 アジア・太平洋への侵略戦争の中で、日本政府は、らい病(ハンセン病)患者を「大和民族の恥」として隔離・撲滅する政策をおこないました。戦争と一体でおこなわれた?民族浄化?政策です。
 1996年にらい予防法は廃止されましたが、療養所に入所している元患者らの扱いは変わりませんでした。
 当時衆院議員だった私は、全国のすべての療養所を訪問しました。元患者のみなさんに国家賠償を求める裁判に立ち上がるよう訴えました。元患者や家族への偏見があるなか、勇気を出して13人が原告になりました。2001年、熊本地裁で画期的な勝利判決を勝ち取りました。
 患者を強制隔離したらい予防法を厳しく断罪した熊本判決は、個人の尊厳を定める日本国憲法があったからこそ勝ちとられたのです。

愛知県 ?無らい県?運動の発祥 強制隔離政策の先頭に

 2015年のハンセン病の新規患者は全国で1名のみ。17年1月5日現在の県出身の療養所入所者数は59人ですが、ほとんどが治癒している元患者です。
 県資料によると、県内のハンセン病(らい病)患者は1897(明治30)年1019人。40年後の1939(昭和14)年には360人に減っています。
 しかし、戦争で増加に転じ、47(同22)年は484人に。戦争による生活と衛生環境の悪化が新患者の多数発生の要因になりました。
 県は、ハンセン病患者が熊本県に次いで全国2番目に多いのは「肩身が狭い」として47年から、患者を摘発し療養所に収容する無らい県運動を本格的に展開します。
 53年末の県出身の療養所入所者数は全国12カ園に422人。主な療養所は、長島愛生園(岡山県)185人、駿河療養所(静岡県)98人、多磨全生園(東京都)59人、栗生楽泉園(群馬県)50人でした。

【ハンセン病】らい菌によって引き起こされる感染症。皮膚や末梢神経が侵される。感染力は弱く、薬剤で完治する。患者は、国の強制隔離政策により差別・偏見にさらされた。