愛知民報

【16.12.11】ハンセン病 熊本判決から15年 人間回復を求めて 愛知の青年が連帯・支援

愛知ゆかりのハンセン病元患者 故平野昭さん(享年84歳)

 
 元ハンセン病療養所入所者協議会役員で、少年時代を愛知県半田市で過ごした元患者・平野昭さんが11月27日、国立ハンセン病療養所多磨全生園(東京都東村山市)で亡くなりました。ハンセン病患者は「らい予防法」(1996年廃止)により強制隔離の対象とされ、幼少時に発症した平野さんも例外ではありませんでした。らい予防法を違憲とし、国家賠償を求めた2001年の熊本地裁判決から15年。平野さんが愛知で果たした足跡をたどります。

差別から逃れて

 ハンセン病を発症した平野さんは、住んでいた半田市の自宅を繰り返し消毒され世間の差別にさらされました。平野さんは、県内の患者らとともに駿河療養所(静岡県)に強制収容されました。17歳の時でした。ハンセン病は伝染力の弱い感染症。当時、特効薬プロミンが開発されていました。
 当時のハンセン病療養所は、入所者が入所者を介護し、従わない人を懲罰房に収容するなど人権が無視されました。平野さんら患者たちは、各地で処遇改善の運動に立ち上がりました。

ふるさと愛知へ

 
 01年の熊本地裁判決後、平野さんは少年時代を過ごしたふるさとの愛知を訪れ、愛知県内の婦人会や民主団体などにハンセン病の歴史を語り広げ、偏見・差別をなくす活動の先頭に立ちました。
 「ハンセン病の真実を知りたい」と愛知の青年らは03年、多磨全生園を訪ねました。その1人、小堀智恵子さんは「ハンセン病元患者さん・家族と共に歩もう・あいち太陽の会」を結成。同年5月、平野さんを招いた講演会を名古屋市内で開きました。
 平野さんは10月の愛知県主催の郷土訪問事業に参加。?里帰り?が実現しました。04年に自叙伝『家族の肖像』を出版。05年のあいち赤旗まつりに出演しました。

県行政動かす

 熊本判決直後の01年6月県議会で日本共産党の林信敏県議(当時)は県の謝罪と名誉回復を要求しました。神田真秋知事(当時)は公式に謝罪。県議会も謝罪と名誉回復に取り組むことを決議しました。
 平野さんら愛知にゆかりがある元患者は02年、神田知事に元患者の名誉回復と啓発活動、社会復帰への支援を求める要請書を提出。無らい県運動発祥の地にもかかわらず遅れている県の対応を批判しました。
 その後、03年から知事は療養所を訪問し県出身者との面談、納骨堂への献花をおこなっています。

人を大切に

 
 「あいち太陽の会」の小堀さんは平野さんについて「人を大切にしてくれるあたたかい人でした。元患者さんたちと交流する中で、人を大切にしない社会の実態を知り、元患者のみなさんの生きざまから生きていく勇気をもらいました」と話します。
 元患者だけでなく、その家族への差別も深刻でした。元患者の家族568人は今年、熊本地裁に新しい国家賠償請求訴訟を提起しました。ハンセン病問題は終わっていません。

無らい県運動の発祥県・愛知

 患者を強制隔離する無らい県運動は1929年、愛知県が発祥。ハンセン病療養所をもたない愛知は全国の隔離施設に多数の患者を強制収容しました。
 療養所では強制労働がおこなわれ、従わせるために懲戒検束権、監禁・重監房がありました。子孫を残さないための断種・不妊手術が実施されました。