愛知民報

【13.09.22】新美南吉と「赤旗」(せっき) 生誕100年 いま、あらためて

 今年は、童話「ごんぎつね」の作者として知られる戦前の児童文学者で、半田市出身の新美南吉の生誕100年に当たります。南吉が戦前に非合法だった日本共産党組織が発行した機関紙「赤旗」(せっき)を所持していたことは“知る人ぞ知る”話。あらためてかかわりを探ってみました。

ごんぎつね

 新美南吉は1913年7月30日、半田市の(やなべ)に生まれました。生家近くには、「ごんぎつね」に登場する矢勝川がいまも流れています。

 南吉は、旧制愛知県立半田中学校(現・半田高校)を卒業。中学在学中から童謡や詩の投稿をはじめ、児童文芸誌「赤い鳥」に「ごんきつね」が掲載されたのは南吉18歳のときでした。

 東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部に進学します。在学中、共産青年同盟の学友と交流があったと伝えられています。卒業後、愛知で教員生活を送りながら数々の童話を発表しますが、結核が悪化し、29歳の若さで亡くなりました。

ガリ版刷り

 「ごんぎつね」は1956年に小学校の国語教科書に採用され、南吉の存在は広く知られるようになりました。

 生前、「赤旗」(せっき)を所持していたことが表に出たのは1989年頃。

 岩滑に住む日本共産党の半田市議だった土井勝己さんは言います。「南吉の遺品を整理していた市職員から私に話がありました。『赤旗』があると」。土井さんは、南吉の生家復元や記念館建設に尽力してきた人です。

 土井さんが見た「赤旗」は、ガリ版刷りの1936年8月1日付のものでした。

「すごいこと」

 戦前の天皇制国家は、侵略戦争反対・主権在民を主張する日本共産党を「国賊」として弾圧。「赤旗」を持っているだけで、治安維持法違反で逮捕された暗黒の時代です。

 日本共産党中央委員会は、激しい弾圧よって1935年に破壊され、中央機関紙としての「赤旗」も停刊状態となりました。

 南吉が所持していた「赤旗」は党再建をめざす関西の党員グループが発行し、「反ファッショ統一戦線」を呼びかけたものでした。

 愛知の社会主義運動に詳しい田中邦雄さんは「あの時代に『赤旗』と名の付くものを持っていたことはすごいこと」と言います。

本紙も紹介

 南吉の「赤旗」所持の話は、1991年2月20日付の、現在の「しんぶん赤旗」に掲載され、全国に知られるようになりました。

 愛知民報社は1993年に発行した単行本「愛知・日本共産党物語」のなかで、「新美南吉と『赤旗』」と題して紹介しました。

半田では

 半田では、明治末期から労働運動や社会主義運動がおこり、 日本共産党の創立者のひとり、片山潜は1908(明治41)年1月に半田で250人の聴衆を集め、社会主義を講演しています。

 南吉の中学時代、半田では地方新聞「春秋新報」が発行され、無産者解放やプロレタリア文学の普及を主張していました。南吉は、中学時代の日記にプロレタリア文学への関心を書いています。

庶民に思い

 南吉は東京外語時代、プロレタリア作家小林多喜二の小説を読んでいます。

 夏休みに帰省した南吉は両親との対話を日記に残しています。「共産主義の或程度までの妥当性を説明してやった。母も解った。父も解った」

 半田市在住の南吉研究者・榊原澄夫さんは「南吉の作品には、赤貧にあえぐ庶民の味方になろうと、意識的に書いた形跡が見られます」と語っています。

真っ赤なヒガンバナ

 12月8日、半田市のアイプラザで「南吉と平和」をテーマに集いが行われます。俳優の天野鎮雄(アマチン)さんが、南吉の反戦平和童話「ひろったラッパ」を朗読します。

 「愛知・日本共産党物語」は、「温かなヒューマニズムにあふれた童話作家は、それゆえにあの暗黒時代のなかでも、国民の根本的利益をいのちをかけて守りぬく真のヒューマニズムの党に、血の通いあうものを感じていたに違いない」と書いています。

 秋、矢勝川の堤には毎年、200万本の真っ赤なヒガンバナが咲きます。