愛知民報

【12.01.22】成瀬昇さんを偲ぶ 見崎?弘(名古屋・革新市政の会総務代表世話人、元愛知県労働組合総連合議長

故・成瀬昇さん

 

接する者に深い感銘 革新・民主のリーダー 闘志、最後まで衰えず

 全国と愛知の革新・民主運動のリーダー、成瀬昇さんが昨年12月18日、ガンで逝った。享年86。

 私が彼を知ったのは1973年の名古屋市長選の時。太平洋ベルト地帯に革新自治体の旗が林立し、「70年代の遅くない時期に民主連合政府を」と言われた時代だった。

 この時、社会党・共産党・愛労評・学者文化人の4者が軸の「革新統一」を実現させ、市長選に本山政雄さんを担ぎ出した最大の功労者が愛労評(愛知県地方労働組合評議会)の成瀬事務局長だ。「憲法をくらしに生かす」「福祉日本一」の市政実現に彼が果たした役割は今も輝いている。

 その後、私は愛知県高等学校教職員組合(愛高教)の役員として愛労評の常任幹事になったが、彼が最も輝いたのは77年本山再選の頃までで、愛労評議長時代、とくに80年に総評主導で「共産党排除」の社会党と公明党の政権構想合意が結ばれてからは随分悩んだと思う。彼が心血を注いだ本山市政は81年に「自・社・公・民」にハイジャックされ、やがて愛労評は県・市政とも「オール与党」の応援団に堕し、最後は自らを解体して?反共・労使協調?の「連合」への合流を決めてしまうのだから。

 成瀬さんが議長を降りたのは87年秋、62歳だった。着々と進む労働戦線の右翼的再編にも批判は挟まなかったが、悩みは深かったのだ。そのことを私は回顧録『野武士のごとく』で知った。時あたかも愛労評が88年大会で解散と「連合」への合流を決めた直後、私が常幹を辞し「反主流」組合が連名で「今後は『連合』には行かない・行けない労働組合のセンター、働く者の利益を守って闘う新たなローカルセンター結成に全力を挙げる」との声明を発した時期に重なる。

 回顧録出版後の成瀬さんは凄かった。国鉄分割民営化で雇用を奪われる労働者を守る先頭に立ち、反「連合」の中心組合だった自治労愛知(当時)の機関紙に「反共主義を克服しなければ労働者の未来はない、『連合』への加盟は自治労の自殺行為」とのコメントを寄せ、「消費税旋風」下の名古屋市長選では「革新市政の会」の竹内平候補=弁護士=の応援に立つなど、吹っ切れたように動いた。

 この言動は接する者に深い感銘を与えた。彼は「自治労機関紙へのコメントは私の41年にわたる運動の総括、自己批判」と述べ、竹内候補の応援演説では「私は夕べ社会党の『脱党届』を書いた。土井さん(当時の社会党委員長)が竹下内閣打倒と言っても名古屋で自民党と組んでいるのだから虚ろに響く。40年間社会党員だったが未練はない。竹内勝利で頑張ろう」と訴えた。

 その後の成瀬さんは?たたかうローカルセンター・愛労連結成、?「国鉄闘争」、東海銀行・川本製作所・中電などの争議支援、「地労委民主化」、?「県・全国革新懇」代表世話人、小選挙区制反対、政治革新と革新統一―など、八面六臂の活躍だった。

 2001年9・11テロ、自衛隊のイラク派兵と情勢の急展開のなか、自民党が公然と明文改憲を掲げたが、75歳を過ぎても成瀬さんの対応は迅速だった。

 「不戦ネット」の水田洋さんなど広範な人々に呼びかけて「テロと報復戦争に反対する愛知の会」を立ち上げ、集会・デモの先頭に立った。04年には「憲法9条を守る11・3県民の集い」を企画し、翌年の「あいち九条の会」結成につなげた。闘志は最後まで衰えなかった。

 元名古屋市長の本山夫妻が逝き、成瀬さんも逝ったが、この国はいま課題・難題が山積みで感傷に浸ることを許さない。成瀬さんが残した財産は大きいし志を継ぐ者も決して少なくない。かくいう私もその志を継いで頑張りたいと思う一人だ。成瀬さん、どうか安らかに眠っていただきたい。長い間、本当にありがとう。