愛知民報

【18.05.13】元防衛官僚・柳澤氏が名古屋で講演 イラク 「日報」 「隊員命がけの声」

講演する柳澤協二元内閣官房副長官補=4月22日、名古屋市

 元防衛官僚で、イラク戦争時に自衛隊のイラク派兵(2004年―09年)を統括した元内閣官房副長官補の柳澤協二氏を招いた講演会が4月22日、名古屋市内で開かれました。名古屋法律事務所友の会の主催。柳澤氏の講演の一部を紹介します。

 イラクに自衛隊が行っているとき、私は官邸にいて毎日報告を受けていました。
 「日報」というのは現地の部隊から防衛庁(当時)に向けての報告だったので、官邸で直接受けたものではありませんでしたが、「こういうことがあった」という報告は防衛庁から受けていました。
 イラク派遣で何が心配だったのかというと、自衛隊が無事でいられるかということです。ロケット弾が宿営地のコンテナを貫通することもありました。
 公表された「日報」によると、コンテナは自衛隊の連絡幹部が寝泊りするために使っていたもので、たまたま仕事でいなかったからよかった。いたら死んでいるという話です。
 イラク派遣は1人も犠牲者を出さずに済んでいるけれども、公表された「日報」をみると官邸にいて想像したよりもっと危ない状況だったということがあらためて分かります。
 「日報」は廃棄しちゃいけないんです。現地の部隊が命がけでまとめ上げてきた声そのものです。とくに今後のためにも絶対取っておかなければいけない。
 イラクでは1人も自衛隊員は死ななかった。もし派遣された隊員が亡くなっていたら、失われた命にたいして自分はどういう責任の取り方ができたんだろうか。軽い話ではない。残されたお母さんに何て言えたんだろう。何も言えないと思うんです。
 戦場に行かない高官だった私は「臆病」でなければならなかった。「行け行け」というのは〝ひきょう〟というんです。それが隊員の死に向きあうときの自分の立場です。向き合わないと自分の人間性を失ってしまうと思ったからです。
 自衛隊は1人の犠牲者も出さずに帰ってきました。私は記者会見に臨む小泉首相に「大事なのはこちらから1発も撃たなかったことなんです」と申し上げました。