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豊川海軍工廠の空襲伝えよう 小中高生2500人が再現劇

 愛知県豊川市で7日、70年前におきた豊川海軍工廠(こうしょう)の空襲が、市内の小中高校生ら2500人によって再現されました。豊川市で起きた悲劇を次の世代に伝える市民の実行委員会と豊川市が主催。
 

助け求める手、振り払った 伊藤さん体験語る

 豊川海軍工廠は当時、「東洋一の兵器工場」と呼ばれ、最盛期には動員学徒を含め5万6700人が働き、海軍の武器、弾薬の7割を生産していました。1945年8月7日午前10時13分から26分間、米軍機の空襲をうけ、2500人以上が亡くなり、工場は壊滅しました。犠牲者の中には中学や女学校、国民学校から動員された少年・少女もいました。

 空襲再現劇に参加したのは、市内14校の小中高生と一般ボランティア、劇団員ら。工場跡地の市野球場に特別に舞台が設けられ、午前10時10分すぎ、空襲警報が鳴り響きました。空襲をうけるたびに、白煙が会場を包み込み、小中高生らは順番に座り込み、炎を模した赤いハンカチを振りまわし、工廠が破壊されていく様子を再現しました。

 当時の悲惨な状態を2人が報告。15歳のときに空襲にあった、八七会の大石辰己会長は「米軍の爆撃で人が飛んでいるのを見た。残飯もない時代、生きるために必死だった」。高等小学校卒業後4カ月で空襲にあった伊藤等さんは「命からがら逃げ込んだ防空壕(ぼうくうごう)はどこも満員状態。助けを求める人たちの手をはらって生きのびた」と語りました。

 小中高生ら代表6人が献花をしました。

 山脇実豊川市長が平和都市宣言し、戦争のない世界、核兵器廃絶を訴えました。日本共産党の佐藤郁恵、安間寛子の両市議も参加しました。

 (8月11日)