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共同の歩み 衆院議員・比例東海ブロック 本村伸子さん(上)

 

 2015年9月17日。戦争法が強行される2日前の夜、国会前の抗議行動で、若者や野党議員とともに本村伸子衆院議員がマイクを握りました。
 「憲法に書かれた国民主権を実現させるたたかいです。戦争法は廃案、憲法を守れ。安倍政権の暴走を許さないという立場で、野党力をあわせてがんばりぬく決意です!」。雨のなか力をふりしぼった訴えに、「そうだ!」「共産党がんばれ」と市民の声が大きく返ります。
 戦争法強行後も全国各地で市民の声は響き続け、16年7月の参院選では、戦争法廃止、立憲主義の回復の大義のもとに全国で市民と野党が共闘する大きなうねりをつくりだしました。
 「歴史的な激動の時代に日本共産党の議員として活動している。その責任の重さを感じます。みなさんの思いに何としても応えていかなければ。その思いでいっぱいです」

■ 国民の思い背に
 14年12月の総選挙で初当選を果たした本村さん。初めての国会で直面した戦争法の問題を、国民の思いを背に追及してきました。
 15年7月の衆院安保特別委員会。愛知県にある航空自衛隊小牧基地の空中給油機が、米軍等の戦闘機に給油することについて、「他国軍の武力行使と一体」で憲法違反だと迫りました。本村さんの追及に岸田文雄外相は答弁できなくなり審議は一時中断。外相は「一体化論」は「日本固有の議論」と居直り、国際法上通用しない議論だと明らかになりました。
 16年2月の衆院予算委員会では、米軍のF35ステルス戦闘機の整備拠点が日本に設置されることを質問。F35生産体制で国内企業が米軍需産業の下請けになると告発し、整備拠点の白紙撤回を求めました。
 国会論戦を通じ、「多くの国民の声を無視し、ごまかしの答弁で大事な問題が決められていく。憲法が壊されていく」と強い憤りを感じました。

■ 父を信頼、入党
 被爆2世として安倍政権が進める「戦争する国づくり」を絶対に許すことができません。
 1972年、愛知県豊田市に生まれた本村さん。食いしん坊でわんぱく盛りの幼い頃から、長崎市で被爆した父親の話を聞いて育ちました。
 「4歳のとき、神社で遊んでいて爆風に吹き飛ばされたんだよ」「少し離れたところにいた弟は亡くなったんだよ」「戦地から帰ってきた父は、息子が亡くなったと知って泣き崩れたんだよ」―。
 共産党の専従や候補者として「戦争、核兵器をなくしたい」「貧困をなくしたい」とまじめにがんばる父の姿に信頼を寄せ、本村さんも大学4年生で入党しました。
 「父の戦争体験を聞いて育ち、多くの被爆者が『核兵器廃絶』『戦争のない世界へ』と人生をかけてがんばる姿を見てきました。いかに平和が大事か、憲法9条が大事かということを痛感してきた。その思いを踏みにじるような安倍政権の政治を変えたい」。体の中から湧き上がるような思いが国会議員としての活動につながっています。(つづく)

(しんぶん赤旗)